音は、軟骨から伝わるか? ①
一般的な補聴器といえば、耳あな型や耳かけ型が思い浮かぶかもしれない。これらの補聴器は鼓膜に音を伝えているため、外耳道の閉鎖により鼓膜に音を伝えることができない外耳道閉鎖症などの場合は、使用できないことが多い。こうした場合、これまでは骨導補聴器(ヘッドバンドタイプ、埋め込み型など)を使用するケースがほとんどであり、身体への負担も少なからずあった。そのような状況を大きく変えるべく開発されたのが、イヤホンの代わりに振動子と呼ばれる小さな部品を耳に装着する軟骨伝導補聴器である。外耳道が閉鎖している場合や、閉鎖はしていないが中耳炎などで耳だれがある場合でも、快適、容易に装用できる。世界で初めて「軟骨伝導」を利用した補聴器なのである。
突然、訪れた全く新しい聴覚経路の発見
全ては、耳の周囲の軟骨を振動させることで音を効率よく伝えられる、という着想を得たことから始まった。この「軟骨伝導」を発見し、製品化の起点となった研究者が奈良県立医科大学の細井裕司先生だ。「音は振動として外耳道から鼓膜、耳小骨に伝わり、内耳で神経刺激に変換されて脳で知覚しています。音を伝達する主な媒体は空気であり、空気の振動を介して知覚する音を『気導聴覚』と呼びます。また、内耳を入れる側頭骨に直接振動を与えることでも音を伝達でき、こうした振動を介して知覚する音を『骨導聴覚』と呼びます。長年、音を伝える経路は、この『気導』と『骨導』のみと考えられていました。ところが2004 年、私は突如、第三の聴覚経路である『軟骨伝導』を発見することになります」
耳の内部にある骨と軟骨は似て非なるもの。英語ではbone(骨)、cartilage(軟骨)と呼ばれる通り、両者は全く異なる耳の構成要素だ。長年、骨の振動によって音を知覚できることは知られていたが、軟骨の振動が音の伝達経路として取り上げられたことはなかった。そして2004 年のある日、大きな発見をすることになる。
「振動子を種々の部位に当てて音を聞いていた時に、あれっと思ったんです。振動子を骨に当てた時と、軟骨に当てた時で音の聞こえが違うと。仮説も予想もありませんでしたが、とにかく直感的に違うと感じた。その違和感を頼りに振動子をいろいろな部位に当てて慎重に確かめてみると、やはり骨と軟骨では、はっきりと音の聞こえが違うと分かりました。私が骨伝導の専門家であれば、聴覚経路には空気と骨しかないというそれまでの概念に固執し、見過ごしていたかもしれません。そこからこれはどういうことかと研究を重ねていくんです」
そして、この軟骨を介した音の伝導は、細井先生によって「軟骨伝導」“Cartilage Conduction”と命名される。
軟骨伝導を活用した補聴器開発への道
それまで古今東西の研究者たちも聞いていたであろう軟骨伝導による音。だが、それは骨伝導による音として見過ごされてきたのだろうと細井先生は話す。その後、軟骨の振動について詳しく調べていくと、自身の直感は正しかったことが徐々に分かってきたという。
「骨伝導というのは、骨が振動して音が伝わるという経路。つまり、骨の振動は必須です。軟骨伝導のメカニズムは骨伝導と異なり、骨の振動は、必須ではありません。外耳道の外半分は軟骨の筒、内半分は骨の筒でできています。軟骨に振動子を当てて振動させると軟骨の筒が振動し、軟骨部外耳道の中、つまり耳の中に音が生成されます。スピーカーにおいては、コーンが振動して空気の粗密波を作り、音を発生させますが、円筒状の軟骨部外耳道がこのコーンの
役割を果たしています。種々の聴覚実験で、軟骨伝導音は気導音とも骨伝導音とも異なる性質を持っていることがわかりました」
世界の誰も気づいていなかった軟骨伝導という聴覚経路。細井先生はその存在を知って以来、研究チームの先生方と共にいくつもの論文を立て続けに発表した。軟骨伝導がきっと新たな補聴器の開発につながると確信していたからだ。
「軟骨から音を伝えるということは、耳の中に音源をつくるということ。つまり自分には音が聞こえる一方、隣の人には聞こえないという利点を持った聴覚・音響機器ができるだろうと。補聴器については、振動子を軟骨に接触させるだけで聞こえるので身体的な負担が少ない。骨伝導の補聴器は、振動を伝えるために骨伝導振動子の装着部の骨を圧迫する必要があり、痛みを感じる場合も多いんです。なんらかの理由で外耳道が閉塞した方でも、振動子を軟骨に当てることによって音が聞ける。私は耳鼻科医ですから、ぜひともこの軟骨伝導を活用した補聴器で、ひとりでも多くの方に快適な聞こえを提供したいと考えたんです。でも、軟骨伝導を発見してから何年もの間、有力国際誌に掲載することができませんでした。それは、論文の査読者が発見されて間もない現象 “Cartilage Conduction”を知らないこと、先行論文がないので参考文献がないことが理由として挙げられます。ある時、医学誌のチーフエディターが来日されましたので、軟骨伝導音を試聴していただきました。初めての体験に「オー」と驚かれ、興味を持っていただきました。その結果、直後に投稿したある論文は、掲載されました。そのような努力と啓蒙活動により、ようやく軟骨伝導の存在が認知されるようになったんです」
そして、軟骨伝導を活用した補聴器の開発に向け、2010 年、リオンとの共同研究が始まり、リオン側ではこの新たな聴覚経路をどう補聴器に活かしていくか、模索が始まっていく。